岩船地蔵堂 - 鎌倉

[旅 写真] 神奈川
08 /25 2015
岩船地蔵堂(鎌倉)

[ 神奈川県鎌倉市扇ガ谷 ] 


鶴岡八幡宮の方からだと、JR横須賀線沿いの西側の道を北に進むと丁字路になり、左は海蔵寺側、右はガード下をくぐって、亀ヶ谷切通から北鎌倉駅に抜ける道になっています。

その右側のJR横須賀線ガードを抜けたすぐ傍に、この岩船地蔵堂はあります。

岩船地蔵堂(鎌倉)


岩船地蔵堂

亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。
木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御息女之守本尊也』との記述があり、続けて元禄三年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されています。
『北条九代記』にも、許嫁との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことがきされています。
このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに紅をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養いたしました。
心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通りください。

平成13年11月吉日 海蔵寺

【 参考・引用 】  説明板より


大姫の許嫁と言うのは、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将・木曽義仲の嫡男・木曽義高(志水冠者)と言う若者です。

源義仲 - Wikipedia:

その木曽義仲の嫡男・木曽義高(志水冠者)は源義高 (清水冠者) - Wikipedia:より引用・抜粋すると

寿永2年(1183年)、挙兵した父・義仲は以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げ、同じ源氏の源頼朝とは独立した勢いを見せた。
また頼朝と対立していた叔父の志田義広と新宮行家を庇護した事により、3月には頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。
義仲が11歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出す事で、両者の和議が成立した。

義高は信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたる)。
同年7月、義仲は平氏を破って入京する。
しかし義仲は京を治めることに失敗し、後白河法皇とも対立する。
頼朝は都に源範頼と源義経を代官とした義仲追討軍を派遣し、寿永3年(1184年)1月、義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、粟津の戦いで討たれた。

父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。
4月21日(6月1日)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。
義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。
しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は幸氏を捕らえ、堀親家ら軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じた。
義高は4月26日(6月6日)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄に討たれた。
こうして、義仲の家系は断絶した。
享年12。

義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。

母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日(8月5日)、光澄は晒し首にされた。


戦国時代には謀反や和議の為に当たり前のように人質を取って、事あれば復讐や反撃の芽を排除するために人質を処刑するのは珍しい事例ではないのですが、大姫が、義高と婚約するのは6歳。

今で言ったら小学1年生の幼子が、僅か1年余りの暮らしの中で人質とか許嫁と言った意味をどの程度理解してたのか判りませんが、父が殺害したと言う事はショックだったでしょうねー。

その後、縁談とかもあったようですが拒み通し、後鳥羽天皇への入内の話も持ち上がったが実現する事無く20歳で早世したそうです。
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地福寺 - 大磯

[旅 写真] 神奈川
06 /11 2015
地福寺 - 大磯

[ 神奈川県中郡大磯町 ] 


ちょっと時期はずれの写真ですが、ここ大磯の地福寺は本数は少ないですが本殿前の中庭に樹齢が100年~200年とも言われている梅の古木が植えられていて、シーズンともなれば紅白の梅の花が一面に咲き誇ります。

また「木曾路はすべて山の中である・・・・・」の書き出しで有名な『夜明け前』の作者で明治の文学者・島崎藤村の眠る寺として有名で、毎年命日の8月22日には「藤村忌」が行なわれている藤村所縁の寺です。

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北条政子の墓のある寿福寺 - 鎌倉

[旅 写真] 神奈川
03 /10 2015
北条政子の墓のある寿福寺 - 鎌倉

[ 神奈川県鎌倉市扇ガ谷 ] 


寿福寺は、鶴岡八幡宮の西を南北に走る横須賀線の踏切を渡った所にある、鎌倉五山第3位の寺院でり臨済宗建長寺派の寺院です。

本尊は釈迦如来で、開基(創立者)は北条政子だそうです。

北条政子の墓のある寿福寺 - 鎌倉

源頼朝が没した翌年の1200年(正治2年)、妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した。

もともと現在の寿福寺のある付近は、奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝の旧邸もこの地にあった。

1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため、当初の計画を変更したといういきさつがある。

創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されている。

【 参考・引用 】  寿福寺 - Wikipedia:



北条政子の墓のある寿福寺 - 鎌倉

境内奥の山裾には横穴式の納骨窟または供養堂とされる「やぐら」と呼ばれる形式の墓所が無数にありますが、その中の一つが北条正子の五輪塔です。

此処に眠る他の有名人のお墓としては、源実朝や陸奥宗光(海援隊隊士)、高浜虚子(歌人)、大佛次郎(作家)などのお墓があります。

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オンチャン


[拠点]
土佐を脱藩して幾年月か経つちよったけんど、2007年にやっと土佐に帰藩したがじゃき。
そんでも仕事で諸国行脚に、チョコチョコ出かけちゅう。
[嗜み]
好きな音楽はジャズとボサノバ、それに写真と旅が好きじゃねぇ。
[使命]
明日を目ざいて、諸国をアッチへ行ったり、コッチへ行ったり「東奔西走」しゆうが。

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