オンチャンはゆく

日本にゃまだまだしょうえい所が一杯あるがぜ。東奔西走しながら撮った写真や、ぶらり旅の戯言を書いちゆうがです。

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(4) 深夜放送で映画にハマル

東京に来て最初に住んじょったがは、川崎やった。

初めて川崎の駅に降りた時にや、青空が無いのに驚いたぜよ。

当時は日本全国で公害問題がクローズアップされていた頃で、川崎の町も大気汚染で病んじょった。


アパートは年代物の古い二階建ての建物で、トイレ・台所は共同。

陽の当たらない1階の6畳1間の板の間で、隙間風の入り込む部屋やった。

親が仕送りしてくれた「お金」からで家賃と光熱費、授業料を差引くと、手元に残る金は殆ど無かったき。


生活費を出すためにアルバイトもした、それが食費と交通費やった。

だから部屋には物が殆ど無かったし、と言うかお金が無いから買えんかった。


段ボール箱に拾ってきたコタツ板を乗せただけのテーブル。

後は、炊飯器にトースターと布団だけ。

当然、扇風機も暖房器具もなかった。


東京に出て最初の冬、東京で大雪が降った。

目が覚めたら枕元が薄っすらと白くなっちょた。

柱と壁との隙間から雪が吹き込んでいたんだ・・・ちょっと信じられないかも知れないが本当の話ぜよ。


この時、友人と何故か明治神宮に行って、初めて雪合戦をしたねぇ。

故郷土佐じゃ、雪が積もる事がないから珍しかったき。


また暖房器具が無かったから、夜はトースターを両足の間に置き、覆いかぶさるように身体を丸めて布団をかぶって我慢しちょった。

ある時、そのまま寝込んだらしいが。

身体が前に倒れこんで、腕を焼けどした。・・・バカげた話ぜよ。


ある日そんな状況を見た大家さんが哀れんで、絨毯と中古の白黒テレビとコタツをくれたぜよ。

当時は毎日何処かのTV局が深夜放送で映画を流していたので、コタツの中に潜って映画を見続けた。

高校時代に音楽の女教師から受けた影響で、映画は観ていたが本格的に映画にのめり込んで行ったのはこの頃からぜよ。


当時、都内には至る所に映画館があり、その中には格安で観れる名画座が沢山あった。

良く行ったのは渋谷の東急文化会館にあった東急名画座

1950〜1970年頃の名作を1本200円の金額で、4〜6日程度の割合で作品を入れ替えて上映しちょた。

3本立てで500円と言う映画館もあり、休みの日などは良く行った。

授業が終わればその足で、試験中であっても終了後は映画館の椅子に座っていた。

だからアルバイトをしても食費よりも、映画代に消えていた。

だから、金が無かったのかー・・・(^^ゞ

月末になると、手元に現金が残っていないから、袋麺を半分にし2日で食べたり、カレーを作っても肉が買えないからジャガイモだけのジャガカレーだったりしたぜよ。


社会人になって、給料が貰えるようになって、ようやく好きな映画音楽のレコード集めを始めたきねぇ。

その前にアンプ・チューナー・プレーヤーとコンポーネント・ステレオを揃えたのは言うまでも無いけんど。

そして輸入盤の映画音楽を求めて、足繁く通ったのは渋谷の「渋谷クロスタワー」(旧・東邦生命ビル)2Fにあるすみや だった。

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(3) フォークの時代じゃなくなってた

1971年の正月、高校1年の時だったかなー、町の小さな楽器店でギターを買うたぜよ。

傷物じゃったから安かったきに、お年玉で買うた。

確か5,000円ほどじゃったと思う。

フォークソングを聴くだけじゃなく、自分で弾いてみたかったがや。


教則本を買うたり、月刊誌で「明星」や「平凡」と言った芸能雑誌と言うのかなー、とにかくその本に付録として当時流行っていた歌謡曲等の譜面と歌詞が載っちょった。

それを見ながら一生懸命(オンチャンは)練習したけんど、如何にも物にならずギターは挫折したがや。


それにこの年に初めてレコードを買うたねぇ。

今、自分で考えても随分と遅かったなーと思うちゅう。

家にステレオと言うかレコードを聴くためのハードが無かったがやき。

そんで、やっと買うたがぁ、レコードプレーヤーちゅう物で、シングル盤が乗ったら一杯で、LPレコードを聴くときには、盤がプレーヤーからはみ出ちょった。

音だってスピーカーが一つしかなかったから、ステレオのように音質も良うなかった。


最初に買ったのは、レッド・ツェッペリンの「移民の歌」だった。

ロック史上に残こる不朽の名作ぜよ。

最初の出だしが凄い衝撃やった。

何でかって、あのような曲は聴いたことが無かったきに。

確かシングルで400円じゃなかったかなー。


それとマッシュマッカーンの「霧の中の二人」も一緒に買うた。

たまたまレコード店でこの曲が掛かってて、メロディーが気に入った買うたが。


1972年2月19日に軽井沢で連合赤軍による「浅間山荘」事件が起こる。

連合赤軍が浅間山荘の管理人を人質にして10日間も立てこもり、2月28日に警察が強行突入したがや。

この模様はテレビで生中継され、釘付けになって観ていたのを良く覚えちゅう。

学生運動の終焉に近い時期じゃったねぇ。


その翌年1973年春、東京の学校に入学するために「青年は荒野を目指し」土佐を脱藩がぜよ。

親には「東京に行くのは良いが、どうか学生運動だけは、せんといてくれ(しないでくれ)!」と言って送りだしてくれた。

その年、かぐや姫の「神田川」が出た。

前回の最後の部分に書いたけど吉田拓郎の「結婚しようよ」は性格に1972年だし、バンバンの「いちご白書をもう一度」も性格には1974年か1975年だったと思う。

そして1975年にユーミンが「コバルトアワー」でデビューする。


だからオンチャンとしてはフォークソングとニューミュージックとの境は1971〜1975年位じゃないかと思うちゅう。

ハッキリした線引きは出来んけんど。

ただ明らかに詩もメロディーも違うちょう。


1975年の「あの日に帰りたい」を聞いた時には、もうフォークじゃない歌謡曲でもないと思うたねぇ。

リズムはボサノバだし。

当時はボサノバと言う言葉を知らんかった。

だから、もしかしたらオンチャンにとって最初のボサノバだったかも知れん。

その後、丸山恵子の「どうぞこのまま」とか、チョット時代はあとになるが松山千春の「もう一度」など、結構ボサノバのリズムが流れる曲はあるし、立派にニューミュージックじゃ。

余談じゃけんど、ボサノバのメロディーはどうも日本人にあってるように思う。


この頃から、ニューミュージックのミュージシャンが歌謡曲の歌手に曲を提供し始めるがや。

吉田拓郎の「襟裳岬」は、森進一が、小椋桂の「シクラメンのかほり」を布施明が歌うちゅう。

極めつけは宇崎竜童と山口百恵のコンビ。

それぞれに、大ヒットを飛ばしていくが、こういった曲には飽きちょったぜよ。

中学生の頃に聞いたような、フォークソング(ニューミュージック)に対する情熱は薄れちょった。


東京に来て、映画三昧の日々を送っていたので、レコード収集は「映画音楽」へと移り始めていたのも原因かもしれんけんど。

オンチャンにとって「映画音楽」は、ジャンルを超えた音の玉手箱ぜよ。

| オンチャンと夜と音楽と | 21:09 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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(2) ラジオから聞こえて来た音楽は

中学に入り深夜放送を聴くようになって、いろんな音楽を聴いたねぇ。

それまでは歌謡曲しか知らない少年が、いきなりエルビスやビートルズ等の洋楽を聴き、高石友也、岡林信康と言った反戦フォークと言われるような音楽も聞き出したがや。

勉強しながら、ラジオから流れる曲は「受験生ブルース」であったり、「自衛隊に入ろう」・「山谷ブルース」だったりしたき。


またこの頃は、放送禁止歌と言われる曲も多かったねぇ。

岡林信康:「手紙」「チューリップのアップリケ」

なぎらけんいち:「悲惨な戦い」

つボイノリオ:「金太の大冒険」「怪傑黒頭巾」「極付け!お万の方」「吉田松陰物語」etc..etc..

赤い鳥:「竹田の子守り唄」

ザ・フォーク・クルセダース:「イムジン河」

他にも沢山在る。

タイトルを聞けば、エーこの曲もって感じぜよ。

とにかく1968−69年の中学生の頃は、フォークソングを手当たり次第に聞いたねぇ。


高校二年になって音楽の授業が急に楽しくなったがぜよ。

理由は簡単明瞭!

音楽の担任に若こうて綺麗な女子の先生が赴任して来たがー。

ツイふらふらと、気持ちが動いたがー


実は音楽の授業が、それまでの小中学校の内容と違うちょった。

クラシックも聞かされたけんど、ポップスも映画音楽も、ラテンも聴いたが。


「音楽にはいろんなジャンルと言うものがあり、人それぞれに感性が違う。

他人が良くても自分にとっては生理的に聴いてて辛いと思う曲もある。

みんないろんな曲を聴いて自分が好きな曲やアーティストが出来れば、そこから水の波紋のように、掘り下げていけば音楽は楽しくなるよ」って言う一言からだったき。


それで目が覚めたちゅうか、「クラシック」もある程度聴くようになり、「映画音楽」にはハマッテしまい、その後映画マニアとなっていく訳ぜよ。

それはまた次の機会に書くが、大嫌いにだったクラシックもロドリーゴの「アランフェス」は今でも大好きで、仕事に疲れたりした時など、ステレオのボリュウームを普段よりチョットだけ上げて聴いちょる。


ところが、「音楽」と言うものを決定的に好きにさせたのは、作曲の授業だったがぜよ。

短調・長調が解らないまま、子供様のピアノで作曲を始めた。

そして初めて音楽で「A」をもろうた。

いやー、あの時はホンマにビックリしたきにー

その後、音楽の基礎はあまり身に付かなかったが、曲を作る楽しみだけはましていったねぇ。

1年間だけだったけど、先生のお陰と感謝しちょる。

1971年頃になると、それまでの人々に訴えかけるメッセージ・ソングと違う、フォークソングが流行り出した。

吉田拓郎:「結婚しようよ」

ガロ:「学生街の喫茶店」

井上陽水:「傘がない」

そしてバンバンの「いちご白書をもう一度」が出た時には、詩の内容からしても大学紛争は過去の物になり、売れないフォークから売れるフォークとなって表舞台に出て来た瞬間だったように思うし、ニューミュージックへの始まりでもあったんじゃないかと思うぜよ。

| オンチャンと夜と音楽と | 21:22 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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(1)音楽の授業は嫌いだった

小学校から中学校の頃って、音楽の授業が大の苦手な子供じゃった。

決して、歌が嫌いな訳じゃないけんど。

単に、授業その物に抵抗があったがや。


授業内容と言えば、先生が弾くピアノに合せて皆でコーラスしたり、レコード鑑賞。

特にレコード鑑賞になった日には、45分の授業時間が途轍もなく長くて辛かったねぇ。

クラシック音楽を無理やり聞かされ、「順番に感想を述べなさい」って言われても答えられないよ先生!。

だって、理解出来んぜよ


学校に吹奏楽部も無かったし、楽器も身近な物じゃなかったき。

それにクラスでピアノを習っている子は、数える程もいなかったきねぇ。

みんなーが、そんなレベルの時代ぜよ。


バッハ?、ショパン?、ベートーベン?・・・何処の誰ぜよ。

シャープが如何の、フラットが如何のって言われても解らんぜよ!

試験も、音楽の基礎(記号だとか・・・)が理解出来てない子だったから、いつも低得点のトップの方じゃった。

そんな訳で、いつも通知表の音楽の所には1・2のオンパレードだったが。


今のように、ウオークマンも無かったし、iPodも無い。

音楽を聴く媒体と言えば、TV・ラジオぐらい。

家にはレコードも無かったから、もちろんステレオも無い。

流れてくる音楽は歌謡曲オンリー。


当時はまだTVが1家に1台が普通の時代じゃったから、TVのチャンネル権は親父にあったがじゃき。

唯一、子供にチャンネル権があったのは夕方から19時頃までの時間帯だけぜよ。


娯楽番組と言えば、野球は巨人戦にプロレス放送。

それに歌番組。

全て親父のチャンネル権によるものなが。

あの頃は、歌番組が多かった。


オンチャンところも、ごたぶんにもれず親父は歌謡曲が大好きだったねぇ。

昭和の懐かしの歌声ってやつじゃ。

だから、家の中に流れていたのもTVから流れてくる歌謡曲のメロディーだけで、それ以外のジャンルの音楽は耳にせんかったぜよ。

今思うと小学校の頃の多感期に、授業でクラシック以外の音楽を授業に取り入れてくれていれば、音楽をもっと早く理解出来ていたと思うけんどねぇ。


中学校に入った頃、巷にエレキブームが流行しちょった。

グループ・サウンドの時代やった。

ネコも杓子もエレキ・ギターの時代で、学園祭ではエレキ・バンドが持て囃されちょったぜよ。

ただ、周りは冷ややかなもので、「エレキをやってる!」と言ったら、「あそこのお子さんは、不良!」のレッテルが貼られたきねぇ。

そんな時代だったちや。


中学に入って新聞配達をはじめたがぜ。

地方新聞だったから朝刊を100部程配っても、月3500円位だった。

最初に貰った給料でSONYのラジカセを買った。

A4サイズ位の大きさで、カセットテープとラジオのみだったが、当時は高価な品物じゃった。

当然、即金では買えず親に保証人になってもらい20回位の分割で買うたが。


FM放送と言えばNHKとFM東京しかなく、しかも地方ではFM東京すら聞けんかった。

メインはAM放送を聴くだけ。

ノイズが入って聞きにくい放送を、必死に周波数を合わせながら聴いたねぇ。


殆どが深夜放送だったけど。

親には、勉強をしているように見せかけ、こっそり夜中に聞いちょった。

お陰で朝は眠いし、偶には朝刊を配達するのが遅くなったりしたが、楽しかったねぇ。


お気に入りは「パックイン・ミュージック」・「セイ・ヤング」・「オールナイト・ニッポン」

愛川欽也、野沢那智、糸井五郎などなどのパソナリティーに夢中になったぜよ。


ラジオを聴く事によって、それまで聴いたことの無い音楽に初めて接した瞬間やった。

そしてオンチャンの耳に入ってきたのは、フォークソングやロックだった。


一方、学校の音楽の授業はと言うと、先生が変わっても変わり栄えもしない退屈で苦手な時間が続いちょった。

| オンチャンと夜と音楽と | 10:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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