興聖寺 - 宇治

[旅 写真] 京都
12 /25 2012
興聖寺 - 宇治

[ 京都府宇治市宇治山田 ] 


山門まで続く約200mもある「琴坂」を登って行くと竜宮造りの山門がある。

「琴坂」の名の由来は、参道脇を流れるせせらぎの音が”琴の音”に似ていることからだそうで、紅葉の名所としても親しまれていて、琴坂の風景が宇治十二景の一つに挙げられているそうです。

春は桜、秋は紅葉と・・・・。

興聖寺 - 宇治

曹洞宗 高巌山興聖寺 縁起
 
当山は人皇87代四条天皇の嘉禎3年(西暦1237年)近江源氏(宇多源氏)近江守護佐々木信綱が京都で宋から帰洛された曹洞宗開祖 道元禅師に謁し、承久の乱で戦死した一族の供養をお願いし、朽木の里に拝請、このとき禅師は付近の山野の風景が伏見深草の興聖寺に似て、絶景だと喜ばれ一寺の創建を奨められ、山号を高巌山興聖寺とするよう勧奨されました。
それから三年仁治元年、七堂伽藍が完成し、遷仏式には永平二世孤雲懐奘禅師の拝請を賜り、盛大に挙行され、それ以来当山が曹洞宗第三の古道場といわれました。
寛元元年(1243年)再び当山に寄られて御教化されて以来、永平寺の直末とし慶長三年まで格別兼務地として続き、永平十九世龍眠柞球禅師が当山に隠栖されてより、独住世代として三十六ヶ寺の末寺を有し、近江八十八ヶ寺の総禄所の地位を保っていました。
開基佐々木信綱は宇多天皇の直系で(宇治川戦陣争いの佐々木高綱も一族)その曾孫、義綱は氏を朽木と改めました。
代々朽木を領し明治廃藩まで続き、当山はその菩提所でもあります。

【参考・引用】 関西花の寺「第十四番」老椿 朽木の名刹 興聖寺


興聖寺 - 宇治

興聖寺 - 宇治
本堂の前庭は石組みの庭園で、宇治七名園の一つ「朝日茶園」です。

途中で廃絶していた興聖寺を、1649年に当時の淀城主・永井尚政によって再興され、本堂は伏見城の遺構と伝えられていて、その奥に建つ天竺堂には、宇治十帖古跡の「手習の杜」に祭られていた「手習観音」が安置されているそうです。
スポンサーサイト

  にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ

宇治十帖モニュメント - 宇治

[旅 写真] 京都
12 /18 2012
宇治十帖モニュメント

[ 京都府宇治市宇治宇治川畔・朝霧橋たもと] 


宇治川東岸、朝霧橋の手前に宇治十帖モニュメントが建っています。

宇治十帖とは、源氏物語54帖のうち橋姫から夢浮橋までの最後の10帖の総称で、光源氏の死後、息子・薫君の宇治を舞台にした物語です。

宇治十帖モニュメント

匂宮が浮舟を抱いて橘の小島へ小舟で漕ぎ出す場面だそうです。>

  にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ

宇治川先陣の碑 - 宇治

[旅 写真] 京都
12 /11 2012
宇治川先陣の碑

[ 京都府宇治市宇治塔川・府立宇治公園(中の島)] 


寿永2年(1183)7月、信濃国で源義仲が数万騎を率いて平家打倒に立ち上がり、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って上洛し、征夷大将軍に任命される。

しかし、洛中は連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃しており、義仲軍意外にも大勢の兵士が都に居座ったため食糧事情の悪化や乱暴狼藉が重なり、洛中の治安維持に失敗します。

そのため、貴族たちからの不満も出て義仲追放の声が上がるります。

後白河法皇は、源義仲に平氏追討を迫り、失った信頼の回復のために出陣するのですが、西国の「水島の戦い」(岡山・倉敷)で完敗します。

後白河法皇は、義仲に平氏追討を命じると同時に、源頼朝に「義仲追討」の令を発布し、大義名分を得た源頼朝は源範頼・義経らを派遣し、源義仲追討へと向かいます。

源義仲にしてみたら、最初に洛中から平家を追い出したのは自分なのに、自分を討ち取れと後白河法皇が頼朝に命じた事は腹立たしく、結局、後白河法皇を幽閉し政権を握るというクーデターを起こします。

源範頼・義経率いる頼朝の軍が迫り、義仲は京都の防備を固めるが、西国での戦いで兵力を失っていましたし、後白河法皇の幽閉等の事で人望も失っていて付き従う兵は無かった。

寿永3年(1184)年1月、源義仲は根井行親、楯親忠ら300余騎で宇治を守らせ、義仲自身は100余騎で院御所を守護したしたのですが、多勢に無勢、宇治では2万5千騎の義経軍と、瀬田で範頼と戦闘に入った。

義仲軍はは宇治の橋を事前に落としていたが、頼朝軍は激流の宇治川を馬で渡りきったのをきっかけに、一斉に全軍が渡河を開始します。

この戦いが「宇治川の合戦」で、この「宇治川先陣の碑」はその時、佐々木高綱と梶原景季が先陣争いした故事により建てられています。

宇治川先陣の碑

因みに、源義仲は河内源氏の一族で源義賢の次男、一般には「木曽義仲」として知られています。

それに奥方は「巴御前」。

源頼朝・義経とは従兄弟になります。

源義仲と源頼朝・義経の従兄弟同士で戦い、義仲は粟津の戦いで討たれる。

そして源頼朝と義経も兄弟同士が戦い、義経は平泉で自害。

そしてせっかく築いた源頼朝の鎌倉幕府も三代で源氏の世は終わり、北条氏に取ってかわられます。

皮肉なものですねー。

【参考・引用】
宇治川の戦い - Wikipedia
源義仲 - Wikipedia


  にほんブログ村 写真ブログ 旅行・海外写真へ

オンチャン


[拠点]
土佐を脱藩して幾年月か経つちよったけんど、2007年にやっと土佐に帰藩したがじゃき。
そんでも仕事で諸国行脚に、チョコチョコ出かけちゅう。
[嗜み]
好きな音楽はジャズとボサノバ、それに写真と旅が好きじゃねぇ。
[使命]
明日を目ざいて、諸国をアッチへ行ったり、コッチへ行ったり「東奔西走」しゆうが。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。